ビーチサンダル
いつもの癖で、8時前に目が覚めた。
明け方にふわふわしながら食べたチャーハンのせいで少し身体が重い。
こんな日くらい早起きしたくないのに。
小さく溜息をつきながら寝返りを打ったら、さっきまで一緒に遊んでいた友達が目の下まで布団を被って寝ているのが見えた。
また明日ね。
へらっと笑った昨日と同じ服を纏った彼女が寝癖をつけたまま出て行くのを見送って、飲みかけのコーヒーを片手にベランダに出た。
アリスブルーの空、白っぽい陽とランチに出かけるであろう人たちの声を聞きながら、ちょっと取り残された気分になる。
何を考えるわけでもなくぼうっとしてみる。
たぶん、わたしにはこういう時間がどうしても必要らしい。
つくづくマイペースだなと自分で思う。
どんなに忙しいときですら、わたしは1日に数回、数分だけ脳みそを回転させるのをやめてしまうから。
一生懸命自分を証明していた時に無意識に五感が記憶していた感覚を、ゆっくり咀嚼して、体感しなおして、仕舞う。
果てしなくて、くだらないこの瞬間が好きだったりする。
ふと、視界の端で捉えていた白い煙の先に自分の足が見えた。
かさかさしていた。
ビーチサンダルの日焼けがまだ消えていない。
遠い昔の記憶に思えるのに。
爪の藍色はとっくにない。
そうだな。
今日は休日だし、とびきり熱いシャワーを浴びたら、お気に入りのニットを着よう。
ラベンダーの香りのするクリームで、保湿をしてあげよう。
一瞬陽が陰って、冷たい風が前髪を撫でた。
寒いなあ。
もう、冬だ。
部屋着のTシャツを洗濯機に放り込みながら、そんなことを思った、昼過ぎ。
恋に恋してるとか、どこの誰の戯言って、
恋はするものじゃなくて落ちるものだって。
いつだってそうだ。
いつだってわたしは恋に落ちてきた。
ことん。と。
そんな音がする。恋に落ちると。
小気味の良い、よく響く明るくて耳障りが穏やかで、子守唄にすらなりそうな。
知ってるよ。
してきたもの。
好きなタイプは?
顔の好みは?
譲れない条件は?
そう言う類の質問が苦手だ。
すきなひとに恋をしていたときわたしは、彼が世界で一番素敵だと思っていたし、彼が理想で、彼がタイプだった。
タイプも、好みも、条件もない。
綺麗事を言うわけでもなく、本当に、純粋に、好きになった人がすべての答えだった。
きっと、それは今も変わらない。
久しぶりに、時間もお金も惜しみなく自分の為だけに使える今がある。
自分の為に料理をして、服を選んで、気ままに遊んで、ご褒美をあげて、返信が来ないとか、彼は何をしているのだろうとか、好きな人のことを考えていた時間は、全てわたしのためだけにある。
デートしよう、と声をかけてくる男性は適当に相手をして、気が向けば遊ぶし、向かなければ適当に断る。
自由で、無情で、ひどく感情的だ。
よくデートをする人がいる。
告白もされた。好きではないからと断った。わたしは自由で、彼には恋人がいる。
そんな歪んだオルゴールみたいな関係がずっと続いている。わたしはたまに、ふと、彼と付き合っちゃえば幸せだなあなんてぼんやり思う。
彼を好きになりたいな。
なんて。
思って、ちょっとだけ思わせぶりなことをして、またねって手を振って別れたって、淋しさと遣る瀬無さと情けなさに潰されてしまいそうになるのに。
ホラ。
自由で気ままなわたしは、恋に恋してるんだ。
恋はするものじゃなくて落ちるものだって。
半分惚気ながら無邪気に言い放った過去のわたしに、わたしは首を絞められた。
伸ばした手のひら
半年前、私の大好きな人が、大好きな仕事を辞めてしまった。
大学生になりたての頃、渋谷のスクランブル交差点で美容師さんに声をかけられた。
カットモデルを探していたその人に、「タダで切ってもらえるならいいか〜」と安易に返事をして髪を切ってもらったのが彼女だった。
彼女は当時デビュー前で、カットモデルに行ったその日に、わたしの髪をボブにした仕上がりを先輩にチェックしてもらっていた。
美容師さんって大変なんだなあってぼんやり思いながら、彼女の真剣さや人柄の良さになんとなく惹かれていたのを覚えていて。
「また切らせてください!」と笑顔で見送られて、つるんっと綺麗になった髪を触りながら、またあの人にお願いしようって、そう思ったのが4年半前。
気づいたら、毎回彼女にカットを頼んでいた。
作品モデルに声をかけてもらったり、スタイリストデビューの知らせを聞いて真っ先に駆けつけたり、トップスタイリストに昇格しました!と名刺をもらったり。
4年半、ずっと私の髪を切ってもらっていて、仕事のことや恋のこと、私の就職のことまで、本当に毎回たくさんの話を聞いてもらっていた。
もちろん、彼女が切ってくれたヘアスタイルはいつも大満足だった。
そんな彼女が、美容師をやめることになってしまった。
身体が思うように動かない病気で、美容師の仕事を続けるのが難しいそうで。
本当に本当にびっくりしたし、同時にとても寂しくて。
美容師として信頼していたのは大前提だけど、それ以上に、私は彼女の仕事に対する向き合い方とか、お客様をどれだけ大事にしてくださってるのかとか、人として好きな面がたくさんあったから。
こんな風に仕事を楽しめたら素敵だなって、ぼんやりとした感情も抱いていた。
大変そうだったけどいつも笑顔で楽しそうに仕事をしていた彼女を見ていたし、彼女にはきっとこの仕事は天職なんだろうなあ、なんて勝手に思っていました。
それだけの仕事が、不本意にもできなくなってしまう。
もし、自分がその状況だったら?
好きで、憧れて目指した道で、そのために努力をして、苦労を重ねて、やっと掴んだと思った夢の端っこがスルリと離れて行ってしまったら。
そう考えたら、すごく悔しくなって、悲しくなって、やるせなくてわたしが泣きたくなってしまった。
不意に手のひらが空を掴んだような、そんな感覚に陥った。
社会人になって一年、働き方とか目標とか、「働く」ということを考えるタイミングが増えた。
ミレニアム世代とか言われるわたしたちは「働く」ことが多様化していて、何の為に働くのか、何故働くのか、その答えも多様化していて。
その中で、「好きなことを仕事にしたい」と思う人はとても多い。
わたしも例外じゃない。
でも、でもね。
「好きなことを仕事にしたい」
そう思えることや、それを目標にできるってとても恵まれているんだなと、改めて思ったんです。
リハビリの為休職します、と連絡をもらってから半年、わたしは彼女が復帰したときに切ってもらおうと髪を伸ばしていました。
長い髪を見せて、「待っていたらこんなに伸びちゃいました」って、またステキなボブにしてもらおうって、決めてた。
結局、それは叶わなかったけれど。
美容師とお客さん。
たったそれだけの関係だったかもしれないれど、わたしには間違いなく「一期一会」の出会いだったなと、振り返ってみて改めて思います。
彼女に髪を切ってもらうことは叶わなくても、どこかでまた、もしかしたら違う形で会えたらいいな、また話せたらいいなって。
同時に、その時までに、わたしは彼女に自分の仕事や、掲げている目標や、それに対する今のわたしを胸を張って報告できるようになりたい。
わたしはいまこれだけ毎日が充実してるんだって。
そう思います。
好きを仕事にするのは、現代では難しいことじゃない。
むしろ、働くことへの多様化が進んでいるからこそ、好きを仕事にしたいと思う若者はきっと増えている。
けど、選ぶ権利があるからこそ、選んだ道への覚悟とか、憧れや強さとか、挫折した時の悔しさとかを覚えておかなきゃいけないんだなって思いました。
わたしはきっと、これからも好きを仕事にしていく。
なんのために。誰のために。どうして。
そんな風に迷いながらだし、挫折しながらだけど。
嫌いな事から逃げるんじゃなくて、好きにこだわるんじゃなくて、「好き」に敬意を払って、わたしがわたしでいられる働き方をする。
いつか、子供ができたときに、仕事してるママはカッコいいねと言ってもらえるように。
これはちょっと夢見がちかな。笑
ある「好き」と正面から向き合ったとき、わたしはそれと「社会人として」接していたいと思ったから。
その答えが間違いじゃなかったと言える日がくるように。
明日もきっと、なにかを掴みたくて手のひらを伸ばす。
花束が似合うひと
花束が似合うひとは素敵だ。
最近、良くそんなことを思います。
男性、女性に限らず、花束を贈られるようなひとは魅力的だなと思うし、花束が似合うひとになりたいなあなんてふんわり思っていたり。
「花束ってもらうとやっぱり嬉しいの?」
以前、上司に言われたひとこと。
まあそう思うよね、なんて納得しつつ、だからこそ花束を贈る、贈られる関係性って素敵だなと改めてときめいたというか、その時の感情がとても印象に残っているのを覚えています。
私たちは普段、花を贈る機会は多くはないけれど、少なくもないなと思っていて。
節目を祝うタイミングはそれなりにあって、そこで花を選ぶかどうかなだけなんじゃないかなと。
花は、利便性のあるものでもないし、一生飾れるものでもないし、味わえるものでもない。
身につけてもらえるものや、実用性のあるもの、その人が欲しがっていたものを贈るほうが、もしかしたら喜ばれるかもしれない。
だけどそこで花という選択肢を選ぶ、って、なんだかロマンチックじゃないですか。
その人のその一瞬を、おめでとうという気持ちや、感謝や、愛を、その瞬間を彩る花を選べる人って素敵だなと思う。
同時に、ありったけの想いが詰まった花束をもらうってどれだけ幸せなんだろうと。
使ってもらえる、身につけてもらえる、理解者になれる。
そういった贈る側のエゴが一つもなくて、純粋な気持ちが溢れた花束って、とても綺麗だなと思います。
通例だから贈られた花束、ではなくて、送る側の祝福や喜びが等身大に詰まった花束は、きっとどんなに高価なものよりも、欲しかったものよりも、嬉しいんじゃないかな。
花束を贈るのはキザだとかロマンチストだとか、そういう風に思う人もいるでしょう。
もしかしたら、花束を贈るのはなんだか恥ずかしいなんて思う人も多いかもしれない。(実際わたしは高校生くらいまで花を贈るのはキザだと思っていたし、恥ずかしかった)
だけど、ロマンチストでいいじゃない。
「君にこの花が似合うと思って。」なんて、普段ならあまり言えないような言葉を言ってみたら良い。
だって、そんなこと言えるタイミングはそんなに多くないし、そんなことが言えちゃうくらい、相手のことを祝福したい気持ちがあるんだから。
私は君のことをこれだけ祝福しているんだ。
そう言われて、嫌な人は居ないと思うから。
花が似合う人は素敵だ。
たくさんの祝福と愛を両手一杯にもらって、もらった花束に負けないくらいの眩しい笑顔を見せる人は、きっとみんなに愛されるんだろうな。
雨の日、傘を差しながら片腕で抱えきれないくらいの大きな白バラの花束を持っている素敵な初老の男性を見て、花束を贈ろうと思ってもらえるような人間になりたいなとか、喜んでもらえるような花束を贈れる人間になりたいなって思ったって話。
9月の魔法
1年でいちばんノスタルジーなのは、出会いと別れの3月でも1年が終わる12月でもなく、9月だと思う。
あれだけ嫌だ嫌だと言っていた暑さが引いてきて、朝晩はタオルケット一枚だと少し肌寒くて、なぜか8月より星が綺麗に見える9月。
夏が終わる。
その事実は、どうして、卒業よりも、年末よりも、曖昧ではっきりしないものなのにこんなに鮮明なんだろう。
私は特別夏が好きなわけではないけれど、毎年夏が終わると切なくなってしまうし、夏を恋しく思ってしまう。
9月にはそんな不思議な魔法がかかってる。
日に焼けた自分の腕が、ちょっぴりドキドキしながら袖を通したスウェットと不釣り合いだった。
真っ青だった空が水色になって、絵の具を溶かしたような薄いグレーの雲と混じっていた。
200%の笑顔を惜しげもなくSNSに載せていた友達が、急に大人っぽくなって写真に映っていた。
久しぶりに会った君の前髪が、少し伸びていた。
たった、それだけのこと。
だけどその瞬間、私はどうしようもなく夏を懐古したくなる。
スマホに収めた思い出を見返したいとか、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込みたいとか、彼女が大人っぽくなった理由を知りたいとか、君はどんな夏を過ごしたのだろうとか。
あれだけ鮮やかに彩っていた夏の思い出は、9月になった途端、カメラのフィルムを通したみたいにちょっぴり遠くなってしまった。
両足で地面を蹴って全力で走っていたのに、歩幅を緩めて景色を眺めながらゆっくりと歩くようになってしまった。
季節の輪郭がぼやける9月は、今も過去に、過去も今になってしまう。
だからノスタルジーで、だから、切なくて綺麗だ。
久しぶりのスウェットから日焼けした手首を覗かせて、水色の空の下で金木犀の香りを吸って。
大人っぽくなった彼女の片想いの行方を案じて、前髪が伸びた君を横目に見ながら、週末はどこへ行こうかなんて考える。
夏を引きずりながらこれからのことにワクワクする、そんな9月が好きだ。
また、来年。
暑いって嘆きながら夏を迎えよう。
きっと9月が、夏を思い出にしてくれるから。